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中一の夏休みの出来事である。 ある日午後の部活から帰ると、自宅裏庭の軒先の下に汚らしい一匹の犬が、みすぼらしいわらの首輪で繋がれていた。その体毛は油で汚れ、皮膚病か何かのために目の周りはパンダのように毛が抜けていた。そしてか細い手足に比べ、おなかの周りだけがビール樽のように丸々と太っている。お世辞にも端整とはいえない面立ちのその犬は、突然目の前に現われた僕に臆病にしっぽを振っていた。 その犬は祖母(母方)の妹、とっこのおばちゃんの飼い犬であるという。そのとっこのおばちゃんが昨晩脳梗塞で倒れ、僕の母が仕方なく自宅へつれて来たのだと言う。 とっこのおばちゃんと僕は話をした事がなかった。 時々祖母宅を訪れるその姿を見かけたことはあるものの、その白髪交じりのやつれた容貌は子供の僕にとっては少しおどろおどろしいものに思えた。また彼女はとても寡黙な人であったし、祖母との間も冷え切ったもので、さほど親密な交流はなかった。 決して他人の悪口を言わない僕の祖母も、とっこのおばちゃんだけは頑なに嫌っていたし、また避けていた。言葉にしなくとも子供心に僕はそれを理解していた。 僕は母から祖母ととっこのおばちゃんとの関係をこっそり聞かされていた。 祖母がまだ幼い頃、祖母の母親は祖母を連れ子としてある家の後妻に入った。その家において、後に祖母の母とその家の家主との子として生まれたのがこのとっこのおばちゃんであった。祖母は十六で嫁に出されるまで、実母や義父から充分な愛情を受けられず、日々ごく潰しや厄介者と呼ばれ、その家で辛い日々を過ごしたという。そして実子であるとっこのおばちゃんとは明らかに異なる扱いを受け、同じ食卓につくことも許されなかったという。また幼いとっこのおばちゃんはそれを鼻にかけ、使用人や召使のように祖母をこき使っていた…ということだった。 祖母たちの暮らした家は、当時の田舎にしては結構な名家だったと聞くが、まもなく没落して家族、姉妹も散り散りに離散した。そして不運にも早くして連れ合いを亡くし、子供も無く、祖母以外に身寄りの無かったとっこのおばちゃんは、僕らの住むその小さな町の河原岸の掘っ立て小屋に一人暮らしていた。今当時を思い返してみても、それは赤貧の極みであったことは想像に難くない。幼くして僕もそれには気づいていた。 『名前は?』 僕が母に問うと、 『ゴン』 と母は答えた。 『嘘だべぇ〜。だってメスだよ…』 僕が言うと母は笑って 『名無しのゴンで良がべぇ』 と答え、そして 『慎ちゃん、ゴンは汚いから触ればダメだよ』 と青筋を立てて念を押すのだった。 その日から僕はゴンに朝晩の餌をやり、水を与えた。僕に会うたびに腹を出して仰向けになり服従を示す彼女の胸や腹をやさしくなでてあげた。そして数日も経たぬうちに実はゴンは妊娠しているらしい事がわかった。乳房は張り、その腹は日に日に大きくなっていった。すでに老齢であるゴンの臨月が間近に迫っている事を知り、母は大きなため息をついた。いつ帰るとも知れない、或いはもう帰ってこないかも知れないとっこのおばちゃんとこのゴンの境遇を思えば、母の悩みやその落胆も無理からぬものだった。母や祖母は保健所に出すかも知れないよ…と僕に脅しをかけた。が、年の割に幼く、まるで子供だった僕は、現実をまったく省みず、無邪気にもゴンの妊娠とまもなく迎えるであろう出産に、目を輝かせて興奮していた。 当時僕の自宅には柴犬のビックというメス犬が家内で一緒に暮らしていた。彼女は自分を人間だと思っていて、人間には誰に対してもたいそう人懐っこかったが、犬や猫に対しては警戒心が強くとても凶暴な一面も持っていた。 ある日の夕方、突然裏庭で大きな犬の怒声が響いた。集金に来た来訪客か誰かが玄関の戸をほんの少し開いたまま立ち去ってしまったのだ。 はっとして裸足で駆け出し、裏庭のゴンの元へ行くと、仰向けに寝転がるゴンの首元に、ビックが激しく噛み付いていた。 僕は怒鳴り声を上げて興奮するビックの首根っこを鷲掴みにしてゴンから引き離した。ゴンはまったく無抵抗に寝転んだままで震えながらその姿を眺めていた。ビックを自宅に放り込み、すぐにゴンの居る場所へ戻ってみると、ゴンはまだ震えたままで仰向けになって腹を見せ、尻尾を振りながら興奮している僕に恭順を示す仕草をしていた。その姿は、まるで僕にすまなそうに謝っているかのようだった。 僕はゴンのおなかや胸をなでながらどこからも血が出ていない事を確認し、心の底からビックの乱暴と自らの不注意を詫びた。ゴンがうちへ来てからすでに半月ぐらいの月日が流れていた。僕の中では、すでにゴンはビックと何ら変わらない大切な存在だった。 その日の夜、僕はビックをきつく叱りつけた後で、少し心配だったゴンの様子を何度も見に行った。最初はいつもと変わらない様子だったが、時間が経つにつれ少し呼吸が荒くなって、苦しげな様子にも見えた。 僕は深夜、隣家に住む母にその事を伝えに言った。ビックに噛まれたところが痛いのかも知れない…苦しいのかも知れない…と。けれども母は、動物病院など隣町まで行かなければないし、第一この時間ではどこも開いてはいない。とにかく明日の朝の様子を見よう。もしかしたら夜のうちに出産があるかも知れない…と不安がる僕をたしなめた。 その夜、僕は深夜遅くまで幾度もゴンの様子を見に行った。ゴンは相変わらず、息苦しそうに横たわっていた。僕が声をかけるとその度に体を少し起こしてしっぽを振っていた。ゴンは痛々しいほど臆病な犬だった。もしかしたら彼女は最期まで、僕におびえていたのかも知れない。 今、時計の針を巻き戻して“あの時”に戻れるのならば、僕は一晩中あの裏庭の軒先の湿ったダンボールの中に身をかがめて、ゴンが息を引き取るまでずっとその胸やお腹をなで続けてあげたいと思う。…が、その時の僕には、それがしてあげられなかった。 翌朝、ゴンはつめたく、固くなってしまっていた。 少し口を開けて舌を出していた。丸かった尻尾がゆるくまっすぐに伸びていた。 そして来たときと同じように、わらでこしらえたみすぼらしい首輪に繋がっていた。 その日わらの首輪だけを残して、彼女はそのまま土に埋められた。そしてしばらくの間思案した母は、その事はとっこのおばちゃんが退院するまで本人には伝えない…と僕に言った。 それから数週間、或いは数ヶ月がたったかも知れない。 夕暮れ時、自宅に戻って宿題を片付けていると、裏庭に人の気配がした。見るととっこのおばちゃんだった。咄嗟に僕は身を隠したような気がする。そして改めてあの日のことを思い出し、良心の呵責に苛まれながら身を隠したままでその姿を眺めていたように思う。 彼女はゴンの居た場所で思案げに少し立ち止まり、ダンボールの中をのぞいたり、エサや水を入れていた皿を触ってみたりした後で、やがてゆっくりと立ち去っていった。手で杖を突き、左足を引きずっていた。その容貌は以前にも増して、さらに生気を感じさせない弱弱しいものだった。 とっこのおばちゃんが立ち去ると、僕は隣家の祖母のもとへ走り事情を聞いた。そこで彼女が今日退院した事、入院費の数十万円を祖母が病院に立て替えさせられた事、そしてゴンの死を今さっき伝えたばかりである事…を聞かされた。 『怒ってなかった?』 恐る恐る僕が聞くと祖母は言った。 『なして?あんなに面倒見てあげたのに…』 『慎ちゃんにありがとう、お世話になりましたって伝えてくれって言われたよ。ありがとうって…』 僕は裏庭に戻り、ゴンのダンボールを眺めた。 横にはみすぼらしいわらの首輪が転がっていた。 きっとゴンはこの首輪に繋がれながら、自分の帰るべき場所をずっと探していたのだ…と思った。 そしてとっこのおばちゃんは、今それを探している。 走り出すととっこのおばちゃんはまだ驚くほど近くに居た。 不自由な左足を引きずるように歩いていた。 声をかける前に涙で前が見えなくなってしまっていた。 振り向いたとっこのおばちゃんに、僕はただ 『ごめんなさい…』 と一言声に出して言うのが精一杯だった。 ビックが殺したんです…僕が殺したんです…。ノド元までそう言いかけて、結局それが言えなかった。そしてわらの首輪だけをその手に差し出した。 とっこのおばちゃんは不自由な左手で静かにそれを受け取ると、穏やかな優しい顔でこちらを眺めていた。そして、 『ありがとうね。お世話になりましたぁ』 と大人にするように丁寧に丁寧に僕に頭を下げた。 ゴンの死については一言も聞かなかった。 そして秋の夕暮れの薄明かりの寂しい道を、不自由な足を引きずりながら、誰も待つ者の居ない河原岸のあばら屋へと向かって歩いていった。 その今にも崩れ落ちてしまいそうなあやうい後姿を、そしてあの日のすまなそうな顔をしたゴンの姿を、僕は二十年以上たった今でも、ずっと忘れる事ができずにいる。あの擦り切れたわらの首輪の感触を、ゴワゴワの体毛と膨らんだまましおれてしまったやわらかい乳房の感触を、僕は今も、忘れる事が出来ずにいる。 【人気ブログランキングに登録しました…応援のクリック心から感謝致します】 ⇒⇒人気blogランキングへ |
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桐谷様 |
ぴょん 2007/11/15 23:41 |
ぴょんさん、コメントいただいたまま気づかずにいてすみませんでした。 |
桐谷 2007/12/11 23:06 |
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