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その教室は用具室と便所の間の、わずか7、8メートルほどの小さな隙間に在った。 『ののみや学級』 校舎北側の陽の当たらない陰鬱な廊下に、手書きの小さなプレートがこじんまりとはみ出ていた。 バケモノがいる…という噂があった。 口を利けない者や、目ん玉の無い者、生まれながらのハゲ坊主や、くろんぼのこどもがいる…と。そのうち『確かにあの教室へ入ってゆくのを見たっ』という者が現れ、教室には生餌となるニワトリが飼われているらしい…という想像を絶する奇説までが乱れ飛ぶようになっていた。まだ年端の行かぬ子供、小4になったばかりの僕らの好奇心はにわかに高まっていった。 当時学年一の悪ガキで、悪いこと、おもしろそうなこと、危険なこと、は誰よりも率先してまず自分が始めなければならない…と思い込んでいた僕は『ならば俺が確かめてやる…』とクラスの仲間を引き連れ、1時間目の授業が始まる前に、その『ののみや学級』へ向かった。噂の中には、未確認ながら『ヤツらはなかなかに凶暴である…』という不穏なものも有ったが、やはりバケモノに直接対面する…という好奇心の前に、そんな躊躇いもどこかへ吹き飛んでしまっていた。扉の向こうのおどろおどろしい世界、未知との遭遇に心弾ませながら、僕らは恐る恐るその木戸をノックしたのだった。 が、中に人の気配はあるものの返事も無ければ出てくるものも居ない。 すりガラスの向こうに何やらヒソヒソとした話し声は聞こえるものの、こちらの気配に怯えているのか一向に応答はない。 幾分緊張から解き放たれた僕らは、やがてその『ののみや学級』の木造の戸を、ワーワーと走り回りながら“ドンドン”と叩きつけた。当初の過緊張のためか、みんなかなりハイな状態で、ビクつきながらもケラケラと声を上げて笑っていた。僕もその一人だった。 『戸を叩かないで!』 という女の声がした。しかし、廊下に出てくる気配は無い。もう一度皆でバラバラに走り出し戸を“バンバン”と叩いて柱の影に身を潜め様子を見る。…すると一人の小柄な少年が教室から飛び出してきて、一番近くで逃げ遅れた仲間の一人にタックルして引き倒した。 はずみで仲間は硬い廊下に強か頭を打ちつけられた。泣き声が廊下にこだまする。それを見た僕らが口々にその小柄な少年の“蛮行”を責め立てた。その色は確かに僕らよりも浅黒くて、小柄ではあるがいつこちらへ向かってくるとも知れぬその俊敏な動きに、僕らの腰は明らかに引けていた。が、泣き崩れたままの仲間を放って置いたままにも出来ない。僕は勇気を振り絞って、『離せよっ!バケモノっ!』と気合を込めて少年に立ち向かった。振り向きざま、少年は言葉にならぬ怒鳴り声をあげ、こちらに突進してくる。そして少年が僕の胸倉に掴みかかってきたその時に、僕の背後から女の先生が現れ、激しい叱責で彼の衝動を制した。 『やめろっ!離れなさいっ!』 散り散りになって逃げてゆく仲間たち。不意を衝かれて、遅れまいとその場から逃げ出そうとした次の瞬間、僕は抗いきれぬ力にガシっと襟首を掴まれ、その教室の中に引っ張り込まれたのだった。 それは体育の用具室のような、薄暗さと陰気くささ、そして埃っぽさが染み付いたような小さな空間だった。 机は10個ほど並べられてはいるが生徒は5人しかいない。首根っこを掴まれたままうなだれて視線を上げてみると、両腕がカマキリのようにくの字に曲がっている男の子がいた。両方の目がまぶたに埋まり、驚くほど小さな瞳をした女の子がいた。異常に背が高く、牛乳瓶の底のようなメガネをかけた女の子が少し怯えたような表情で神経質そうに貧乏ゆすりをしていた。教室の一番後ろには毛糸の玉ぐらいの小さな顔をした男の子が独り言を言いながらぼんやりと立ち竦んでいた。そしてたった一つだけの小さな窓際には、ついさっき僕の胸倉に掴みかかってきた黒い肌の少年が、口をへの字にしながら鋭い眼光でこちらを睨みつけていた。 僕は小さな教壇の上、先生の横に並んで立たされた。何度も振りほどいてそこから逃れようと試みたが、僕の襟首を強く掴んだ先生の手力には、それは絶対に許さない…という揺るがぬ意志が込められていた。 『興味があるんでしょう?だったら今日一日、一緒に過ごしましょう』 そう言うと、華奢ではあるが背筋をピンと伸ばしたその四十がらみの女先生は、僕に向かって自己紹介をしなさいと促したのだった。 ついさっきの出来事を咎める様子はない。怒っている風でもなく、僕を急き立てるような刺々しさもなかった。…何分もの沈黙が続く。生徒たちはこちらの様子を注視しながらも、それぞれに勝手な手仕事を始めだす。壇上の僕はうなだれたままチラチラと先生の様子を見る。が、先生は泰然と、微笑したままじっとこちらを見つめていた。やはり諦める気配が無いことを悟り、僕は仕方なく口を開いた。 『…キリタニです』 先生は『何年何組?』と尋ねる。 『…4年3組です』 『はい、私はののみやです。じゃあ、よろしくお願いします。』 先生が会釈をしたので、つられて僕も頭を下げた。 『…よ、よろしくお願いします…』 『Fくんの隣に座ってください。Fくん、キリタニくんを連れてって』 先生がそう言うと、イヤイヤながらもその色黒の少年は僕の腕を掴み、犯罪者を連行するような憤怒の面持ちで自らの隣に着席することを促した。たったひとつの小さな窓からは遠くのハゲ山が見えた。生餌のニワトリの姿などどこにも見当たらなかった…。 やがて木戸をノックする音がした。僕の担任の先生の顔が見えた。ののみや先生と僕の担任は廊下で何やら話合っているようだった。そして数分後に担任が木戸からこちらに顔だけ出し、 『しんくん、今日一日お世話になりなさい。みんなよろしくねっ!』 と曇り一つ無い晴れやかな笑顔を振りまいてサッサと帰っていった。捨てられた子犬の気持ち…が、その時初めて判ったような気がした。僕は深い絶望に打ちひしがれていた…。 それからののみや先生に促されて、1時間みっちりかけて5人の生徒の自己紹介が始まる。自身の名前や学年(彼らは2年生から6年生まで混在していた)の他にも、それぞれの兄弟の話や誰かと誰かが最近喧嘩をした話、また誰かと誰かが仲良しな話。得意な遊びや覚えかけのピアニカの実演会など…僕にとってそれは、途方に暮れるような退屈な時間だったが、彼らは無邪気にそれを楽しんでいるようにも見えた。彼らの精神がある部分において自分のそれとは僅かばかり異なる場所に在るような雰囲気はなんとなく判った。けれども、だからといってなぜ彼らがこんな場所で、僕らとは別に隔離されているのか…は判らぬままだった。 自己紹介の終わりに先生は教壇に戻った。そして微笑みながらも、真剣な面持ちで僕に念を押した。 『しんくん。みんなの名前を覚えて帰ってね』 ののみや先生のその言葉には、何か凛とした強い意志のようなものが込められていた。僕の襟首を掴んだときの手力、そしてこの言葉を僕に投げかけた時の目力と威厳…彼女は結局一度も僕を叱ることはなかったが、この2点において僕はこの先生に抗うことの不毛さを否応無く認識させられた。 『6年生のMMさん。5年生のFMくん。5年生のJEくん。3年生のHTさん。2年生のNDくん。ここには5人の生徒が居ます。ここはののみや学級です』 僕は頬杖をつきながらコクリと頷いただけだったように思う。こんなことならば職員室にでも連れてゆかれて、一、二時間ばかりこってり絞られたほうがどんなにマシだったろうか…と正直思っていた。気の遠くなるような退屈な時間を、そして自身の悲運を激しく呪っていた。 一時限ごとに教科は定まっているが、それぞれがそれぞれに学年が違い、教科書も違うものだから、それは一つの授業という態ではなく、5分割の個人授業のような趣だった。しかもキチンとしたカリキュラムに則って…というよりは、それぞれがそれぞれの能力にあった教科書を用いて勉強しているようだった。4年生の僕と同じ学年の生徒はいなかった為、僕はFくんと机を並べて同じ教科書を共有させてもらったが、使っていたのは2年生の教科書だった。また幼い頃から算数が苦手な僕だったが、僕以上にこれまた算数がちんぷんかんぷんのようだったFくんのために、二桁の足し算や引き算につき合わされた…2年生のNくんと3人で一緒に2年生の教科書を教材に設問を解かされる…。いくら自分自身算数が苦手だったとはいえ、さすがの僕もこれには閉口した…。 退屈して、僕は頬杖をつきながら窓の外ばかりを見ていた。 2年生のカマキリ腕をしたNDくんが、愛嬌たっぷりにそんな僕を真似てみんなの笑いをとる。つられてFくんもニコニコ笑いながら僕の真似をする。気遣っているのか、バカにしているのか…僕には判らないが、またみんなの笑い声が起きて、さらに僕の気分は沈んでゆく…。 やがて給食の時間がやってくる。 ののみや先生はここで一緒に食べましょう…という。4年3組の給食係の女子が当たり前のように僕の給食を運んでくる。ニヤニヤと笑いながらやってきて『召し上がれ!』と言い残して去ってゆく…。そしてまた5人の笑い声が巻き起こる…。まったく最悪の気分だった。 結局、僕はその後3日間。…3日間もの間、朝4年3組に入室しては担任に促され、ののみや学級に向かわねばならなかった。3日間、毎日小2の教科書を教材に授業を受けねばならなかった。そして事あるごとにFくんやNDくんにからかわれ、ちょっかいを出されながら、イジられキャラを演じねばならなかった。当初これは苦痛以外の何物でもなかった。 朝、僕がバツ悪そうにののみや学級の戸を開けると、ののみや先生の『しんくん、いらっしゃい!』という声に呼応するように、彼らは決まってカラカラと声を上げて愉快そうに笑った。頼まれるでもなくFくんが僕を連行するように窓際の席に導く。そして僕と彼の間に1冊の2年生の教科書が広げられる。僕がそっぽを向く。窓の外を眺める。するとNDくんが頬杖をつく僕を真似て、皆でまたカラカラと声をたてて笑う。給食になれば牛乳が苦手な僕を指差してまたカラカラと笑う。ののみや先生に学力を試された僕が、6年生の国語の教科書の朗読に窮するのを見て、2年生の教科書さえまともに朗読できないFくんが笑う。そして6年生のノッポで牛乳瓶の底のようなメガネをしたMMさんが、小声で僕に漢字の読み方を教えてくれる。それをカマキリ腕のNDくんがモノ真似して、またみんなの笑い声が起こるのだ。 みんながみんな、僕をおもちゃにして楽しんでいる様子だった。そして日がたつにつれ、僕もそんな彼らの心の動きを、些細なことでも笑いのネタにしたり、欲求や好奇心の赴くまま素直に振舞うその様を、密かに心地よく受け入れられていたような気もする。たまにケンカは起こるが、誰に促されるでもなくまたすぐ仲直りをする。帰りの会で自らそれを謝る。ののみや先生に促されてお互いに握手をする。そしてみんなで歌を歌い別れる…。毎日がそんな繰り返しだった。体育は無かった。時々、皆で教室でハンカチ落としをしたりして遊んだ。すべてがその小さな教室の中での出来事だった。校内の他のどのクラスとも没交渉に、そこだけののどかな、安らぎある時間が流れていた。 あれから長い年月を過ごしたが、僕の耳の奥には、あの日の薄暗い小さな教室にカラカラと響いていた彼らの陽気な笑い声が今でも残っている。たくさんの記憶が、日々薄れ、消え去ってゆく中で、あの記憶だけは今でも鮮明なままである。 3日目の最後の授業が終わったとき、ののみや先生は教壇の上に僕を呼んだ。 『みんな、しんくんは今日で4年3組に戻ります』 みんな笑顔だったが、あのカラカラという笑い声は聞こえなかった。 『しんくん、みんなの名前を覚えてくれたかな?』 最後に先生は僕にそう尋ねた。 僕はハっとしてとして先生の顔を見たが、先生は気にも留めずに生徒の一人を指差す。 『しんくん。はい、彼女は誰だっけ?』 その指す方を見て、僕はホッとして答える。最前列に座るMMさんである。 『6年生のMMさん』 MMさんが笑っている。すると先生はすかさず、違う子を指差す。 『彼は?』 僕は少し身を乗り出した色黒のFMくんを眺めながら、余裕しゃくしゃくで答える。 『5年生のFMくん』 『はい。じゃあ、彼は誰?』 カラカラと笑い声が起きる。どうやら、みんなこのゲームを気に入ったようだった。カマキリ腕のNDくんが自信ありげに腕組みをしてこちら見つめる。 『2年のND…NDくん』 彼が得意そうに頷く。先生がそれをからかいまた笑いが巻き起こる。残りの二人の名前は、一番前の席に座った6年生のMMさんに小声で助けてもらった。最後に先生は『忘れないでね』と僕に念を押した。のののみや学級での3日間はこうして終わった…。 彼らを“バケモノ”と罵った僕のことばは、結局最後まで咎められることはなかった。 僕はその“バケモノ”という言葉を、5人のヒトの名前に置き換え、一足先にののみや学級を卒業させてもらった…。ののみや学級が僕らの学校から姿を消したのは、その2年後ぐらいの事である。僕らが6年生になった時には、その教室はただの用具室の延長として扱われていた。 きっと彼らは、ここから遠くはあるが、もっと居心地の良い場所を与えられたのだろう…と僕は思った。ののみや先生の姿もそれっきり一度も見たことはなかった。 4年3組に戻り、僕は『バケモノ』はやはり居なかった…と皆に伝えた。そして噂どおりヤツらはかなり手強い…と。そしてあの遊びは危険であり、ののみやというあの女教師は“鬼”であった…と。 僕らの彼らに対する好奇心は急速に醒め、今度は学校下に住む好色ジジイが4年生以上の女子だけを家にあげてお菓子を振舞う…という噂を聞き付けるに及び、ジジイの家の裏山、畑へと繋がる畦道に大きな落とし穴を拵える事に血道をあげた…。結局ジジイを穴に葬ることは叶わなかったが、僕らはそんな風に何ら変わらぬ日々を過ごした。今にして思えば、まったく“イタい、イタすぎる”糞ガキだったと思う。 ののみや学級の生徒たちと、僕はその後言葉を交わすことはなかった。残念ながら、そこに収まりの良い物語などなかった。 ただ、時々学内で不意に顔を合わせた記憶だけが残っている。6年生のMMさん、5年生のFMくん、そして2年生のNDくん…。合うたびに彼らは幾分親しみを込めた笑顔を、僕に投げかけてくれていたように記憶している。 放送委員だった僕が、給食・昼休みの校内放送に、DJ気取りで好きな音楽をかける。下校時間に生徒へ帰宅を呼びかける。…そんな時、少し背の伸びたカマキリ腕のNDくんが、一階の放送室前の生垣から体を乗り出すようにして、窓を隔ててDJに興じている僕をのぞきこんで見ていた事が何度かあった。こちらを挑発するかのように、彼はあの笑顔でよく頬杖をつく仕草を見せてくれた。 僕が“あっちへ行けっ!”と手で促す。 彼はそれを見て、少し反抗的にその手を払いのける仕草をする。 そして自身の顔を指差す。 “僕は誰?” 僕は決まって両手を広げ、 “知らねーなぁ!” のポーズをしてやる。 次の瞬間、彼の満ち足りた笑みがその顔にあふれ、アッカンベーをして立ち去ってゆくのだ…。 そんな他愛の無い情景が、今も色褪せることなく、僕の記憶の中でカラカラと笑い続けている。 *思い出の曲 Tom Waits - In The Neighborhood 【人気ブログランキングに登録しました…応援のクリック心から感謝致します】 ⇒⇒人気blogランキングへ |
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