キリタニ100法

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<<   作成日時 : 2008/05/21 15:56   >>

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その頃僕は孤独だった。
真昼の無い世界で、夜と朝のあいだにひとり息をひそめていた。
何者か…に成らなければならなかったが、何者にもなりたくはなかった。
鳥かごのような小さな狭い空間の、オートロックの頼りない鉄板一枚にたよって世界を遮断しているつもりだった。

その小さな鳥かごのような部屋のベランダに、上階からドサリっと1枚の敷き布団が落ちてきたのはある晴れた日の夕暮れ時のことだった。マンションは全室7畳ほどの1ルーム賃貸の集合体であったのだが、その構造上、一つ上階の住人の落し物であることは明らかである。どうせすぐに引き取りに来るだろう…と高をくくり、僕は夜露に濡れぬよう部屋に取り込んだままにして、そのまま放って置いた。
が、その夜も、そして翌日になっても、上階の住人が僕の部屋を訪れることはなかった。

こちらに非がある訳ではないのだが、盗まれたのでは…と相手方に不審に思われていないかと心配になり、あくる日の朝、僕はその重い敷布団を抱えて上階の住人の部屋のインターフォンの前に立った。

『ベランダに布団が落ちていたのですが…』

すると数秒の沈黙のあとに消え入りそうな小さな声で、

『…あの、…いまおかあさんはいませんっまたあとできてください…』

と女の子の声が聞こえた。
その返答は僕からすれば到底納得のゆかぬものではあったが、その女の子が突然訪れた見ず知らずの男の声に脅えている事だけはよく理解できた。

『…そうですか。じゃあ、おかあさんに布団が足りなくなっていないか聞いてみてください。僕はすぐ下の208のキリタニという者です』

僕はそう言って自室に戻った。

僕の部屋のチャイムが鳴ったのはその日の夕暮れ時のことだっただろうか。上階の住人が布団を引き取りに来たのだとすぐに理解した寝起きの僕は、インターフォン越しに会話を交わすことも億劫に思え、敷き布団を抱えたままいきなり部屋の扉をバンっと開いた。目の前には小学校低学年ぐらいの女の子が、心細そうに一人で立ち竦んでいた。
無意識のうちに冷たい顔になっていた僕は、その女の子の不安そうなそぶりを見て、慌てて引きつった笑顔をこしらえてみた。

『やっぱり君んちの布団だったんだネ…』
僕がそう言って微笑みかけると、彼女は同じように引きつった笑顔で顔を強張らせながら、僕にこう宣告したのだった。

『ふとんをかえしてください』

次の瞬間、僕たちはやっと目を合わせて、引きつらずに自然に笑いあうことができた。自分でも何かそのセリフの語感が適切ではない…と感じたのか、彼女はしきりに恐縮しながら頭を下げた。彼女にはそれを抱えて階段を上ることは少し大変そうに思えたので、結局僕が彼女の部屋の前まで運んだ。
部屋の扉を開けることはなかったし、彼女の母親にも会うことはなかった。『ありがとうございました』。彼女の言葉に『どういたしまして』と僕が答えて、その話は終わった…。
と思っていたのであるが、その後も毎月のようにおなじような事の顛末が繰り返され、ある時は彼女のTシャツやGパンを、そしてある時には彼女の母親の下着を、僕の部屋の扉まで彼女が引き取りに来て、それを僕が返品した。物が落ちてくると、僕がそれを上階から見えるように僕の部屋のベランダの物干しの上に掲げ、彼女は上からそれを覗き込むとそそくさと引き取りにきた。

世界と絶縁したかった僕の、その鳥かごのような小さな空間の中の“孤独”と、その外に広がる“セカイ”を、ギリギリのところで結び付け、繋いでくれていたのが、もしかしたらそんな望まぬ落下物の数々と、あの小さな女の子の、同じように満たされぬ“孤独”だったのかも知れない…。

彼女の泣き声、叫び声を聞いて、部屋を飛び出したのは深夜の2時を回った頃のことだったように思う。僕の部屋の脇の階段を、彼女とその弟、そして母親らしき女の人が駆け下りてゆこうとするその後を、素っ裸の濡れたままのアジア人が、その手から流血しながら追いかけていった。
その異様な情景に、咄嗟に僕は自身の部屋に引き返そう…と身構えたのだが、

『恐いっ!』

と叫んでこちらを振り返った彼女の姿を見て、やっぱりどうしても放っておく事は出来ずに、もしかしたら刃物を持っていたかも知れないそのアジア人の男と3人の家族を追って、僕も1階のロビーまで駆け下りていった。ついた時にはすでに子供たちの母親がその裸の男と両腕を絡ませながら、大きな声で落ち着くようになだめており、そこから少し離れたところで彼女とその弟が、素足にパジャマのままで泣きじゃくっていた。

僕はしゃがみこんでその二人の姉弟を自分の懐に抱え込み、母親に横から声をかけた。

『どうしたんですかっ?警察呼びましょうかっ!』

すると彼女の母親は、
『いいえ、結構です!お騒がせしてすいません』
状況からは不自然なほど落ち着いたトーンで、こちらを見ずにそう答えたのだった。

『どうして、どうしてあなた判ってくれないの…愛してる、判って、愛してる…』

裸の男は、そう叫びながら彼女の母親の身体にすがりついた。その肌は依然濡れたままで、背中にはシャワーの泡が残っていた。一向に噛み合わない二人の話し合いはそれからしばらく続いた。『子供たちを部屋に…』と母親に問いかけようかと何度か思ったが、状況を見るに、すぐに部屋に戻らねばならないのはこの母親と裸の男のほうであり、またそこに同居することを子供たちは絶対に望まない…と考えたので僕もずっと黙っていた。
まず男が部屋に帰り衣服を身につけたうえで速やかにこのマンションから立ち去ること…その上で子供たちが母親と部屋に戻り休息を取ること…。僕はそんな都合の良い筋道の為の打開案をあれこれと考慮しながら、男を恐がる子供たちの肩を抱き、泣きじゃくる姉弟に『こわかったね。でももう大丈夫だよ。もうすぐ帰れるよ』と声をかけた。

驚いたことに、これだけの騒ぎにも関わらず部屋の外へ出てくる者は僕らのほかに誰一人居なかったのだが、それから十分もすると住人の通報により、けたたましいサイレンを鳴らしながらパトカーが駆けつけた。男は幾分抵抗し母親の衣服を引きちぎりながらも、やがて数人の警察官に取り囲まれ、観念したかのようにパトカーの中に押し込まれていった。母親は警察官に男の衣服を取りに一旦部屋へ戻ることを促され、子供たちを引き連れて足早に去って行った。

『あんたは…誰?』
そう不躾に警察官に問われ、何か釈然としない憤りを抱えたままの僕は、
『隣人っ』
そうぶっきらぼうに答え、警官の視線を振り切って僕もその場を後にした。子供たちを思うと、このやりきれない現実にツバを吐き掛けたい気分だった。

詳しい事情は今もって僕には判らない…。
が、二人の会話から推察するに、何かキッカケあって親しくなったアジア人留学生と、バツ一の二人の子持ちの母親との、その交際の終焉にまつわるイザコザのようだった。血が流れていたその男の手傷は、自らの自傷行為によるもので、別れ話に興奮して自制が効かなくなった男が、手にした刃物で母親や子供を脅すような真似をし、なんとかうまく言いくるめて男にシャワーを浴びさせている間に、家族3人で部屋から逃走したところが、見つかって裸のまま追走された。…そんな話だった。

二人の子供たちの震えた小さな背中が、その泣きじゃくるかすれた声が、痛々しかった。
何かしてやりたいが、僕にはかける言葉さえなく、母親に置いて行かれまいと慌てて階段を上がってゆくその子供たちの足取りを、僕はただ無言で見送るしかなかった。

そしてその後、僕のベランダに落下物が落ちてくることはピタリとなくなった…。

何者にもなりたくなかった僕は、短期間のうちに何者かに成り果て、生の実感を喪失すべく、まっとうな社会の、互いに望まぬシステムの中に帰属した。そこには朝と夜との間に昼が在り、僕はあくせくと息を切らしながら…自我への回路を遮断した。


ある日曜日の昼下がり、僕は昼食を取りにマンションを出て西武池袋線江古田駅近くの飲食店へ向かった。マンションの玄関口を塞ぐ様に止めてあった引越し会社の2tトラックと荷物を満載した白いセダンの横をすり抜け、駅へと向かった。そして道路脇の古本屋のワゴンの前で少し足を止め、買う気もない古本のページをパラパラと捲っていると、僕の脇をゆっくりとその2tトラックと白いセダンが通り抜けて行った。

僕はハっとして振り返った…。

セダンの後部座席の窓に、へばりつき、顔を押し付けるようにして、あの女の子がじっとこちらを見ていた。彼女は窓を開けるでもなく、口を開くでもなく、手を振るでもなく、じっと、瞬きもせずに僕を見ていた。

その不安そうな眼差しを、憂いと哀しみに満ちた面影を、僕は励まし勇気付けるどころか、目を逸らさずに受け入れることで精一杯だった。そして僕も、手を振るでもなく、口を開くでもなく、この街を、あのマンションを引き払い、僕の知らない“セカイ”へと旅立ってゆく少女の姿を、その眼差しを、踏み切りの向こう、曲がり角を越えて、ずっと遠く、見えなくなるまで…ただぼんやりとその場に立ち尽くして見送った。

そのたった数秒のシーン、今生の出会いと別れが、今も僕の脳裏に深く焼きついて離れないのはなぜだろう。

あれからもう二十年近い時が経つが…君はこの“セカイ”と上手に馴れ合って生きているだろうか?小さな鳥かごから、僕よりも上手く飛び立つことはできただろうか?


BGM/Across The Universe   by Fiona Apple


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