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僕は捨てられないものは持たない主義である。 持っていて負担になるモノ、重荷に感じられるモノ、或いはモノ…ばかりでなく人間関係に至るまで、あらゆるモノというモノを、関わりという関わりを、抱えたくないニンゲンなのだ。 しかし、そんな僕でも捨てられないモノ…が2つだけある。 それは、死んだ祖母が書き遺した一年の日記と、その日記に挟み込まれていた彼女の夫…つまり僕の祖父の一枚の写真である。 幼稚園から帰るなり僕は、 『おっぱいちょうだいっ!』 と言って祖母の懐にもぐり込み、しなびたおっぱいに吸い付く“オカシな”子供だった。 土曜日の夜は祖母と一緒に“木枯らし紋次郎”を見ながら、蚊帳の中で眠った。母にこっぴどく叱られ、便所の中に閉じ込められたときには、いつも窓の外から祖母の手がニョキニョキっと伸びてきて、泣きはらした僕を救い出してくれるのだった。 中学を終えるまで僕は自分の爪を自分で切ったことがなかった。すべて祖母がやってくれるからだ。そして僕は十七歳で祖母と別れるまで、火で炊いたご飯に“おこげ”というものができることを知らなかった…。きっと真っ白いきれいな部分だけを、祖母が僕に選り分けていてくれたのだろう…と今さらながら思う。 僕は中学二年に至るまで、祖母と一緒にお風呂に入っていた。反抗期の渦中にあったその時分でさえ、頃合を見て、自ずからおもむろにシャンプーハットを被って、祖母の前に頭を差し出し、ゴシゴシと洗ってもらっていた。湯船に入って『100数えなさいよ…』と祖母に言われるがままに、頭の中できっちり100まで数えていた…。今となっては、まったく習慣とは恐ろしいものだ…としか言いようが無いが、当時の僕はそんな奇妙な光景に、ひとかけらの疑念さえ持てなかったのであった。 そしてそんなある日、うっすらとしたチョビ毛が下にパヤパヤと茂ってきて、 『チン毛が生えてきた…』 と祖母に指差して見せてやったら、 『ほう。やっと生えてきたかぁ』 と祖母はニッコリと微笑んでいた。そして、 『明日から一人でお風呂に入んなさい。ちゃんと自分で頭も洗って、お湯の中で100数えるんだよ』 と言うのだった…。 習慣とはつくづく恐ろしいもので、僕はオッサンになった今でも、湯船に入る時は無意識に100数える。100数えるまで、湯船からあがる踏ん切りがつかないのだ。祖母と一緒にお風呂に入ったのは、その日が最後だった。 幼少の頃、僕は祖母に『おじいちゃんにそっくりだ…』と言われた。 指先にツバをしてよく眉毛をなぞられたりもした。垂れた目尻がとてもよく似ているのだ…と祖母は言った。そしておじいちゃんは、本当に優しい人だったよ…と。 まだ十代の早い時期に、自身の望まぬ婚姻を結ばされた祖母は、その嫁ぎ先での冷たい仕打ちに、ある日ほとほと嫌になり、近くの川に身を投げに向かったのだという。けれどもたまたまその日は土砂降りの台風で、ドロ水の渦巻く川面の濁流を見ていたら恐ろしくなって、結局死に切れなかったのだ…と聞いた。そこで姉妹やら何やらの助けを受けて、夜逃げ同然にその町を去った。そこで出会ったのが僕の母の父…要するに祖父であった。 けれどもそんな祖母が、祖父と一緒に居られたのはたった1年か、数ヶ月の事であったという。祖父が戦場に赴いてから、僕の母が生まれた。僕の母は祖父の顔を知らないし、祖父はわが子である母の顔を知らない。…もしかしたら、生まれたその事を、新しい命が宿ったというその事すら知らずに、彼は死んでいったのかも知れない。祖母はその一時の、優しかった祖父の面影だけをその記憶に宿して、永遠の別れをつきつけられた。 それが、その後の祖母の人生を、よりいっそう辛くもし、また時に幸福にもしてくれたのだと僕は思う。 やがて僕の反抗期はますますひどくなって、誰とも口をきかなくなり、目をあわすことさえしなくなり、帰宅するなり自室に引きこもって、ただラジオを聴いて、音楽を聴いて、そして眠りこくって…。 そんな時、ふと目を覚ますと、僕の顔の目の前に祖母の笑顔が在るのだ。 ただ、笑っている。いつもただ笑って静かに眺めている。そして僕に文句を言われながら『おお、コワイコワイ…』と言って去ってゆく。『眠っている時が一番かわいいねぇ』と笑いながら去ってゆくのだった。 あれから二十年以上の時が経って、いま僕が祖母との思い出を思い返すとき、まぶたの裏に浮かぶのはその時の祖母の笑顔である。誰とも口を聞かなくなった僕を、ただ笑って眺めていた、その顔である。夢に見るのも、懐かしむのも、その時の祖母の優しいまなざしである。 十数年前の年の暮れに、突然東京に住む僕に祖母から電話がかかってきた。 『お正月は帰ってくるの?』 もう何年も正月の帰省などしていない僕に、祖母はそう尋ねるのだった。 『まだわからない』 と帰る気の無かった僕は曖昧に答えた。そしてその日から祖母は、風邪をこじらせて体調の優れない中、厳しい寒さの年の瀬に、僕の部屋を掃除するために何度も何度も隣家に足を運んだのだという。そして誰も来ない正月を一人で過ごした祖母は、その年の1月7日に死んだ。あの電話のあった日に交わした言葉が、祖母と僕との最期だった。 葬式を終え、祖母の遺品をあれこれと整理していると、一冊の日記帳が出てきた。そこには若き日の祖父の写真が大事そうに挟み込まれていた。 その家計簿やメモ帳を兼ねた1年間の日記帳には毎日こんなことが書いてあった…。 1月1日 今日より新しい1年。10時よりお寺さんに行ってきました。 1月2日 今朝ワとても寒い朝でした。一日中テレビを見て過ごしました。 1月3日 今日も朝の内ワ寒かったけれど、少し天気もよく成りました。 ……… 7月6日 今日も少しくもりの日でしたが、夜9時ごろしんちゃんより電話が来ました。 ……… 12月30日 今日も朝からよい天気でした。 12月31日 今日ワ少し風の寒い日で時折雪がちらちらして居りました。 86歳でこの世を去った祖母の何もない一年が…その平穏すぎる日々が、そこに認められていた。 モノというモノは何も持ちたくない僕は、これだけは捨てられずに田舎から持ち帰った。ゴミの束として積み上げられた雑多な書類の中から、祖母の形見としてこれだけを盗み取り、僕は帰京した。そうして時が経ち、ありとあらゆる様々なものを捨て去りながら僕は生きてきたが、これだけは捨てる事ができなかった。決して大切なもの…というわけではないけれど、きっと死ぬまで、この一冊の日記と一枚の写真を僕は自分の手元に置いておくことだろう…。 もう何年も、墓参りなどしたことがない。 もう何年も、僕はあの町を訪ねることさえしていない。 僕と祖母の、その関わりの痕跡など、今ではこの頭の中の記憶をのぞけば、ベッド脇にある一冊の日記帳と、僕によく似ていた…という一人の青年の一枚の写真をおいて他にはない。 僕はその写真を、今の僕よりも若く、端正な面影を持つその青年の肖像を、彼を愛したという、愛し続けたというしわくちゃのバアちゃんの写真と向かい合わせに重ねて、こっそり自分の財布の中にしまっている。きっと、青年にとってはたまったものではないだろうが、バアちゃんには、しわくちゃのバアちゃんにとっては…、そんないまが幸せであってくれればいいと思う。幸せであって欲しいと、心から思う。 青のレクイエム/元ちとせ 【人気ブログランキング…応援のクリック、いつも心から感謝致しております】 ⇒⇒人気blogランキングへ |
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キリタニブログ 2008/11/11 11:31 |
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